音楽の「系譜」が持つ、本当の意味 〜ハンガリー留学と24年を歩んだツィンバロンの記憶から〜
音楽の世界で「系譜」という言葉を耳にすると、「誰に師事したのか」「どこの音楽大学を卒業したのか」といった、いわゆる「経歴のリスト」を思い浮かべる方が多いかもしれません。
もちろん、それらも演奏家としての歩みを示す大切な事実です。しかし、僕が考える本当の意味での「系譜」は、もっと深く、もっと血の通った、温かいものです。
それは単に偉大な先生方の名前を履歴書に並べることではありません。一人の師匠から弟子へ、そしてまた次の世代へと途切れることなく受け継がれていく、音楽への思想、音色の紡ぎ方、身体の使い方、作品への深い向き合い方、さらには舞台の上に立つ一人の人間としての在り方までを含めた「生きた文化の流れ」そのものなのです。
楽譜には書かれていない「伝統のバトン」
例えば、日本の伝統芸能である歌舞伎や能、あるいは茶道や華道などでは、師弟関係や家元という仕組みが何百年もの間、非常に重んじられています。これは単に「偉い先生だから」という形式的な理由からではありません。先人たちが命を削りながら磨き上げてきた知恵や、言葉にできない美意識を、できるだけ純粋な形で次の世代へ手渡していくための極めて合理的な仕組みだからです。
この考え方は、西洋のクラシック音楽にも全く同じように息づいています。ピアノやヴァイオリン、あるいは指揮法を学ぶ人々が「自分は誰のもとで学び、その先生はさらに誰から学んだのか」という系譜を驚くほど大切にするのは、楽譜に書き残すことのできない本質的な要素が、そこに含まれているからです。
「この一音を、どのような響きで空間に放つべきか」
「音が消えたあとの沈黙を、どう表現するのか」
「お客様の前に立つとき、どのような心で舞台に上がるべきか」
こうした芸術の本質は、どれほど優れた教科書や本を読んでも学ぶことはできません。長い時間をかけ、師匠の背中を見つめ、ともに音を重ねていく日々の営みの中でしか、受け継がれないものなのです。
ハンガリーでの留学生活と、3人の師匠から授かったもの
僕が人生を捧げてきたツィンバロンの世界も、まさにこの系譜の連続でした。僕はブダペストで3人の偉大な師匠(サカーイ、セヴェレーニ、ヘレンチャール)から教えを受ける機会に恵まれました。
現地で学んだのは、決して打弦のスピードや難曲を弾きこなすための超絶技巧だけではありませんでした。
エルケル劇場の首席奏者でもあったヴィクトリア先生の計らいで、オペラの練習や本番をオーケストラピットのすぐ真横で見学させてもらった日々の緊張感。エアコンもないアパートの部屋で、扇風機を回し、たらいに張った冷たい水に足をドボンと浸しながら必死に譜面と格闘したブダペストの暑い夏。そうした留学生活のすべてを通して師匠たちから教わったのは、もっと精神的な根源にあるものでした。
それは、「一音に対する責任」「楽器への敬意」「聴衆への誠実さ」といった、目には見えないけれど何よりも重い伝統の重みでした。日々のレッスンを通じて、肌で学ばせていただいたのです。
「ステージには神様がいる」という教え
ツィンバロンの専門家になって20年以上が経ち、コンサートのたびに僕の心にはある確信があります。それは、「ステージには神様がいる」ということです。NHKホールのバックステージにも立派な神棚がありました。
神様はテクニックだけを見ているわけではありません。見られているのは、「どんな気持ちでその音を紡いでいるか」、そして「その奏者の足が、しっかりと地についた生き方をしているか」です。
評価という「花」に目を奪われるのではなく、それを地中深くで支えている「根っこ」を大切にしなければならない。舞台からは見えないその根っこの張り方こそが、音の響きとなって現れるのだと、僕は全ての師匠たちから教わりました。
24年の相棒とともに、今を紡ぎ、未来へつなぐ責任
僕には24年間ずっと一緒に歩んできた相棒(ツィンバロン)がいます。
この楽器とともに、ドイツ、スイス、チェコ、スロバキア、そして日本全国を旅してきました。近年のNHK交響楽団(N響)との共演、NHK大河ドラマの劇中音楽のレコーディングといった大きな舞台でも、いつもこの相棒が共に戦ってくれました。またその一方で、東日本大震災の被災地で仮設住宅を巡った日々や、今も継続して取り組んでいる能登半島地震の被災地支援コンサートなど、人々の哀しみに寄り添う現場でも、この相棒は何も言わずに僕のそばで音を重ね続けてくれています。
これらの経験を通じて、僕にとって「系譜」とは単なる経歴ではなく、師匠から受け継いだ音と精神を次世代へ伝える重い「責任」だと強く感じています。
先人たちが紡いできた長い歴史の最先端で、僕は師匠から授かった本物のツィンバロンの響きを大切に守り、未来へつないでいくつもりです。


