ツィバロン奏者 斉藤浩のブログ

ツィンバロン奏者 斉藤浩のブログです。日々のことを少しずつ書いています。コンサート情報や、感想なども。

ブログ一覧

能登へ、ツィンバロンの音を届けに。僕が動く理由

こんにちは、ツィンバロン奏者の斉藤浩です。

今、僕は能登半島地震の被災地、石川県珠洲市を中心に、復興支援の演奏活動を始めています。

活動のことを報告すると、たくさんの方から「応援してます」と温かい言葉をいただきます。
でもその一方で、「今、音楽なんて必要?」という心ない言葉も、残念ながら耳にします。

それでも僕は今、どうしても能登へ向かい、ツィンバロンの音色を届けなければならない理由があるんです。
僕の歩みと、2つの故郷への思いを、少し長くなりますが聞いてください。


1. 三陸の仮設住宅を巡った、8年間の記憶

僕の復興支援の原点は、2011年3月11日の東日本大震災です。
当時、縁があって岩手大学で後進の指導をしていた僕は、震災直後の三陸の光景に、ただ立ち尽くすしかできませんでした。瓦礫の山。失われた家。言葉を失った人々の目。

「音楽家として、僕に何ができるだろうか」
何日も悩んで、最後に出した答えは、愛車に重さ70kgを超えるツィンバロンを積んで、ひとりで松江から現地へ向かうことでした。

2011年から2018年までの8年間。毎年、三陸へ通い続けました。
ホテルに泊まる余裕なんてありません。まず当時、被災地にはホテルなんてありませんでしたから。車中泊しながら、大船渡市、陸前高田市、山田町、釜石市…、仮設住宅を1日に3〜4軒回って、ミニコンサートを続けました。1回1時間。短い時間です。でも、その1時間が、その日だけでも“日常に戻る1時間”になればいい。そう思ってバチを握っていました。

津波で家族を失った方の前で弾いた時、ツィンバロンの弦が震える音が、部屋の空気ごと震わせました。演奏が終わると、そこには涙と、少しだけ柔らかくなった表情がありました。

「音楽なんて、お腹の足しにはならないかもしれない」
三陸へ向かう車の中で、そう何度も自分に言い聞かせました。
でも現地の方が「久しぶりに心が休まった」「生きていてよかったと思えた」と言ってくれた時、僕の不安は静かに消えていきました。

音楽はご飯にはなれない。でも、傷ついた心に寄り添って、明日を生きる灯りをともすことはできる。
それを、僕は三陸の皆さんから教わったんです。


2. 故郷・松江と、姉妹都市・珠洲市を結ぶ「約束」

そして今、僕は「松江観光大使」という名誉ある役目をいただいています。

僕の故郷、島根県松江市は、今回の能登半島地震で大きな被害を受けた石川県珠洲市と、昭和63年1988年から約40年、「姉妹都市」として深い絆で結ばれています。

これはただの行政の取り決めじゃないんです。
松江の子どもたちが珠洲の海で研修して、珠洲の職人さんが松江の工房を訪ねる。市民同士がお互いの家に泊まり合う。そんな“家族のような交流”が、40年も続いてきました。

松江の人にとって、珠洲は遠い他人事じゃない。
会えば「久しぶり」と肩を叩き合える、隣人のような存在です。

松江観光大使として、そして三陸で“音楽の力”を知った音楽家として、大切な姉妹都市が苦しんでいる時に、じっとしていることはできませんでした。

松江市民のひとりとして、珠洲の皆さんに「僕たちはあなた方を忘れていません。いつも想っています」って、音で直接伝えたい。
重いツィンバロンを車に積んで能登の道を走る理由は、それだけです。


3. 「今」届けるべき、ツィンバロンの音色

被災地での演奏が贅沢だなんて、思っていません。
水、食料、電気、住まい。生活の基盤が一番大事なのは当たり前です。

でも、震災から半年、1年、2年…時間が経つほど、人々の心には見えない「疲れ」と「孤独」がたまっていきます。
昼間は手続きや片付けで忙しい。夜になると、ぽっかり穴が開いたような“喪失”が押し寄せる。そんな時間に、音は届くんです。

ツィンバロンという楽器は、ピアノみたいに広い音域を持ちながら、どこか琴のような哀愁も持っています。
ツィンバロンの弦をバチで叩いて生まれる音は、耳に残るんじゃなくて、心に残る音だって、僕は信じています。

僕がやりたいのは、大きなホールで自分を誇示することじゃない。
避難所の体育館の隅、仮設住宅の集会所、公民館の一室。
そこでただ静かに、皆さんの張り詰めた心をほんの少しだけでも解きほぐす時間を作ること。

演奏の後、誰かが「ふぅ…」って深呼吸してくれたら。
誰かが「少し眠れそう」って言ってくれたら。
それで十分です。三陸で、そうだったように。


おわりに:ただ、目の前の人の笑顔のために

三陸での8年間がそうだったように、僕の支援は「僕が何かしてあげるため」じゃありません。

むしろ、家も家族も失いながら、それでも朝起きて、子ども達とに笑顔で過ごそうとする現地の皆さんの強さに、僕の方が毎回勇気をいただいています。

「自己満足だ」「偽善だ」
そう言われることもあります。受け止めます。

でも、仮設住宅の奥から聞こえてくる「ありがとう」の一言が、僕の全部の答えです。

これからも、僕を育てくれた松江の誇りを胸に。
そして三陸で学んだ“心のケア”の力を信じて。
ツィンバロンと共に、能登へ、珠洲市へ通い続けます。

すべては、目の前の誰かが一瞬でも不安を忘れて、笑顔を取り戻してくれる日のために。

どうか皆さん、僕のわがままな挑戦かもしれません。
でも、能登の被災地の皆さんへ、温かい想いを寄せていただけたら嬉しいです。


ツィンバロン奏者・松江観光大使
斉藤 浩

2026年06月22日

本物のツィンバロン文化を未来へ|斉藤浩公式ブログ

昨日は僕の誕生日でした。世界中の友達が誕生日のお祝いメッセージを送ってくれて、とても嬉しかったです。ありがとう。

2026年6月、僕はハンガリー国立リスト音楽院でディプロマを取得してから、ちょうど20周年を迎えました。そして誕生日も迎えた今、これまでを振り返り、これからを見つめながら、どうしても皆さんに伝えておきたいことがあります。

【むき出しのピアノ?魂の響き】
「ツィンバロン」という楽器。初めて聞く方もいるでしょう。
台形の木箱に金属弦。綿を巻いたバチで叩く、エキゾチックな楽器です。
「ピアノのご先祖さま」とも呼ばれ、リストは“マジャール・ゾンゴラ=ハンガリーのピアノ”と呼びました。

大河ドラマべらぼうの中でも「蔦重のひらめきの音」として使われ、少しずつ知られてきました。風のように繊細で、胸を締め付けるほど哀愁に満ちた響き。一度聴いたら忘れられない音です。

【楽譜の向こう側にあるもの】
20代、僕は本当の姿を知りたくてハンガリーへ渡りました。
そこで知ったのは、「バチを器用に動かす」だけでは語れない、深い音楽の海でした。

ツィンバロンには、ハンガリーの歴史、人々の喜びと悲しみ、言葉のイントネーション、そしてロマの音楽家たちが百年かけて磨いた「即興の魂」が息づいています。そして僕は、リスト音楽院では“芸術楽器”として、ソロもアンサンブルもオーケストラとの新作も演奏しました。

楽譜をなぞるだけでは、その魂は眠ったまま。
指揮者の呼吸を感じ、オーケストラと対話し、その瞬間の揺らぎを音に乗せる。
それがコダーイたちが込めた、本物の真髄なのです。

【ネットの情報を「そのまま信じないで」ほしい】
今は誰でも情報に触れられます。Wikipediaもその一つです。
しかし、悲しいことに、そこがいつも“正しい真実”とは限りません。

ツィンバロンの解説でさえ、専門書から都合の良い部分だけを抜き出したり、資格を持たない奏者がプロと同列に並んでいたりします。
僕は公式に「Cimbalom」の日本語表記に関しても指摘を重ねてきましたが、返答はありません。

だからお願いします。
本物の文化は、匿名の文章ではなく、歴史と実績の中にあります。
ネットの文字を、そのまま盲信しないでください。

【未来へ、灯を繋ぐために】
日本で演奏し始めて20年。僕は本物の響きだけを届けると決めてきました。

ツィンバロンの専門家となって20年たった今、プロの音楽界もハンガリー政府も背中を押してくれます。
だからこそ、これから目指す若い世代のために「本物の系譜」の道標を作りたい。

僕が現役で全力で走れる時間は、あと数年かもしれません。
だから今、真実の美しさを伝えたいのです。

ほんの少し、耳を澄ませてみませんか?
もしツィンバロンに出会う機会があったら、表面の情報ではなく、その奥の「歴史の重み」と「奏者の魂」に触れてください。

ハンガリーの大地から日本のステージへ繋がってきた響きに、本当の感動があります。
この美しい文化を一緒に守り、愛してくれる皆さんと出会えることを、心から楽しみにしています。

2026年6月 斉藤浩


20周年の節目に本物の文化継承への想いを綴ったブログ記事のアイキャッチ
2026年06月18日

僕がツィンバロンと歩んできた道|斉藤浩 公式ブログ

僕はツィンバロン奏者の斉藤浩です。

ハンガリー政府給費留学生としてブダペストに留学し、エチュード音楽院ツィンバロン科を首席で卒業。その後ハンガリー国立リスト音楽院を経て、スロバキア国立バンスカ・ビストリツァ芸術アカデミーも首席で卒業しました。
アジア人として初めてツィンバロンのディプロマを授与されたことは、僕の公式プロフィールにも明記しています。

留学中からハンガリー、スロバキア、チェコなどヨーロッパ各地のコンサートや音楽祭に出演。
帰国後は日本を拠点に、オーケストラとの共演、リサイタル、学校でのワークショップなど、さまざまな場でツィンバロンの音色を届けてきました。


公的な場に支えられてきたツィンバロンの活動

僕の活動は、個人の演奏だけでなく、ハンガリーとの文化交流の文脈でも育てていただきました。
日本ハンガリー友好協会の推薦でハンガリーに留学し、その後も同協会や在日ハンガリー大使館、リスト・ハンガリー文化センターと連携した企画で、演奏やワークショップを行ってきました。こうした活動の一部は、僕の公式サイトのニュースやレポートとしても公開しています。

また日本国内では、サントリーホール サマーフェスティバルや主要オーケストラとの共演、NHK大河ドラマ「べらぼう」への参加など、ツィンバロンが公的な場でも紹介される機会が少しずつ増えてきています。

こうした経緯から、日本におけるツィンバロンの活動が、ハンガリー本国の教育システムや国際的なツィンバロン界と直接つながった「一本の線」として継承されてきたことは、公的な記録からもたどることができます。


日本語インターネットに生まれた「ねじれ」

一方で、日本語で「ツィンバロン」や「ツィンバロム」と検索すると、別の「流れ」も見えてきます。
演奏家のサイト、解説ページ、愛好家のブログ…さまざまな情報が並ぶ中で、本来であればハンガリー語や音楽学の知識を前提に慎重に扱うべき表記や定義が、専門教育と結びつかないまま広まってしまった例があります。

特に影響が大きかったのは、ハンガリー政府や世界のツィンバロン界から正式に認知された経歴を明示しないまま「協会」などの名称で情報発信された結果、それが日本語検索の「基準」のように見えてしまったことです。

ツィンバロンの日本語表記についても、Wikipediaや各種辞書サイトで「ツィンバロム」「ツィンバロン」など複数の表記が並列に記され、その根拠が十分に示されないまま「どれでもよい」「むしろツィンバロムが正しいのでは」という印象を与える書き方が見られます。

ハンガリー語の発音や表記への理解が十分でないまま書かれた情報がWikipedia等に採用され、それを前提にした解説が次々と複製されていく。その連鎖の結果、日本語圏では長年、表記と発音に関する混乱が固定化してしまいました。


「協会」と名乗ることの重さ

日本語で「◯協会」と名乗ることは、本来とても重い意味を持ちます。
一定の専門性を持つ人々が組織として集まり、その分野の標準や情報を整え、社会や教育現場に責任ある形で発信していく。そういうイメージがあるからです。

ところがツィンバロンや打弦楽器の日本語情報に関しては、ハンガリー政府や世界的なツィンバロン界から正式な認知を受けていないグループが、日本国内で「協会」の名を掲げ、その情報が検索結果の上位に長く居座ってきました。

そうした団体の多くは、どの音楽院・大学でどのような専門教育を受けたのか、どのようなディプロマや学位を持っているのか、国際的なツィンバロン界やハンガリーの公的機関とどのような関係があるのか、といった点が公的な資料からは確認できません。

それでも「協会」という肩書きだけが独り歩きし、一般の方にはあたかも公的な標準を示す団体のように見えてしまう。このギャップが、日本のツィンバロン業界、ひいては打弦楽器に対する認識を長年歪めてきた原因の一つだと感じています。


表記の問題は「誰が始めたか」

ツィンバロンの日本語表記をめぐる混乱は、「些細な表記ゆれ」の問題ではありません。
原語であるハンガリー語の発音cimbalomという語の歴史的背景、同族楽器との区別など、丁寧に検討されるべきテーマです。

ところが現実には、ハンガリー語の運用や音声体系を十分に理解していない人が、個人的な感覚に基づいて「こう読むべきだ」「このカタカナがよい」とインターネット上に書き、それがWikipediaなどに取り込まれたことが、現在の混乱の出発点になっています。

その後、日本語の辞書サイトや解説ページが、出典や専門的検証を十分に行わないままその表記を踏襲した結果、専門教育を受けていない個人の意見があたかも「公認の正解」であるかのように検索結果の構造を通じて固定されてしまいました。

この意味で、現在の表記問題は、単なる「言葉の好み」の違いではなく、「誰の言葉が公的な基準として扱われてしまったのか」という、もっと本質的な問題だと僕は考えています。


ネット検索の構造が生んだ「最悪の結果」

現代のインターネット検索は、更新頻度が高い、被リンクが多い、一定の文字数と構造を備えたページを優先的に上位に表示する傾向があります。
音楽学的な裏づけや、現地語の知識、演奏家としての経歴とは無関係に、「検索されやすい書き方」をしたページが目立ちやすい構造があるのです。

ツィンバロンの場合、この構造が悪い方向に働きました。
本国の教育とつながった情報は、日本語ではごく限られていた一方で、資格や経歴が明確でない人による解説ページや「協会」サイトは、比較的早い段階から日本語で公開されていた。そのため現在に至るまで、日本語検索の上位には専門教育とは結びつかない情報が並び、本来であれば基準となるべき系譜や教育システムが見えにくい状態が続いてきました。

ツィンバロンに興味を持ってくれた人が、最初の一歩でそうした情報に触れ、「これが正しいのだろう」と信じてしまう。それは、ツィンバロン文化そのものにとって、決して望ましいスタートではありません。


いま、何をはっきりさせるべきか

ここで僕が伝えたいのは、「誰かを名指しで非難したい」という話ではありません。
そうではなく、どの情報が、どのような背景と責任のもとに書かれているのか。誰が、どこで、どのようにツィンバロンを学び、受け継いできたのか。を、もう一度はっきりさせる必要がある、ということです。

日本でツィンバロンや打弦楽器を愛することは、プロであってもアマチュアであっても、等しく尊いことです。
そのうえで「正統なツィンバロン文化の継承」という観点からは、本国の教育システムと具体的なつながりがあるか、ディプロマや学位が明確に示されているか、ハンガリー政府や在外公館、主要オーケストラなど、公的な場での活動実績があるか、といった点をやはり無視することはできません。

僕自身は、ハンガリーとスロバキアの公的な教育機関で学び、ディプロマを取得し、ハンガリー大使館や文化センター、日本のオーケストラと共にツィンバロンの音を届けてきた奏者として、その系譜の一部を担っていると自覚しています。


20周年の今だから言えること

この20年間、僕はインターネットの情報を、見守ってきました。。
でも、僕がツィンバロン奏者として30周年を迎える頃に、演奏活動が伴っていない状態で、同じことを言うのは難しいと思うんです。

だから今、20周年の節目に、記録として残しておきたい。
これが、僕にできる“本物のツィンバロン界、打弦楽器界に対する誠実さ”だと思っています。

僕はこれからも、音で証明し続けます。


これからツィンバロンに出会う人へ

このブログでは、僕が歩いてきた道のりや演奏活動だけでなく、
ツィンバロンの歴史と背景、表記や発音に関する問題点、本国の教育に根ざした楽器のとらえ方、なども日本語で少しずつ整理していきます。

インターネットの情報は便利ですが、それだけに「どこから来た情報なのか」を意識することが大切です。
これからツィンバロンに出会う人たちが、できるだけ早い段階で、確かな系譜につながる情報に触れられるように。

誰かを否定するためではなく、この楽器を愛してくれる人たちに、まっすぐなスタートラインを用意したい。
その思いで、僕はこれからもツィンバロンと向き合い、日本語での発信を続けていきたいと思います。


2026年6月 
ツィンバロン奏者 斉藤浩

2026年06月14日

検索で初めてツィンバロンを知る人へ~僕が伝えたい、もう少し広い姿~

伝統的なタイプのツィンバロン。

今日は、インターネットで「ツィンバロン」と検索したときに出てくる説明について、僕が感じていることを書いてみたいと思います。

検索の最初の一文で、イメージが決まってしまう

多くの人にとって、ある楽器との最初の出会いは、検索結果の数行の文章です。
「ツィンバロン」と検索すると、たいていこんな説明が出てきます。

ハンガリーなどで使われている打弦楽器
台形の箱に張った弦を叩いたり弾いたりする楽器
ある決まった番号の楽器に分類される

どれも、まったくの間違いではありません。
歴史や楽器のしくみをざっくり知るには、とても分かりやすい説明だと思います。

ただ、演奏の現場にいる僕から見ると、「この説明だけで終わってしまうのは、ちょっともったいないなあ」と感じることが増えてきました。

ツィンバロンは「珍しい民族楽器」だけではない

これまでツィンバロンで関わってきた仕事を振り返ると、本当にいろいろな場面があります。

オーケストラの曲で、ほかの楽器と一緒にステージに立つ
映画やテレビ番組の音楽を録音する
学校やホールで子どもたちと一緒に音を出してみる

初めてツィンバロンを聴いた方からは
「思っていたよりずっと柔らかい音ですね」
「ピアノとも打楽器とも違うけれど、すぐ耳になじみました」
といった声をよくいただきます。

僕自身にとってツィンバロンは、
「オーケストラやいろいろな音楽の中で活躍できる、グローバルな楽器」
というイメージが強くなっています。

ところが、検索の最初の説明だけを見ると、

どこか遠い国の、特別な民族楽器
普段のコンサートとはあまり関係がなさそうな楽器
という印象で止まってしまいやすいように感じます。
その結果、本当は相性の良い場面がたくさんあるのに、「候補にすら上がらない」ことがあるのではないかと心配しています。

分類や専門用語は大事。でも、それだけでは伝わりきらない。

楽器を番号で分ける「分類」の考え方は、研究の世界ではとても役に立つものです。
ツィンバロンも、その中でちゃんと位置づけられています。

ただ、ステージの上で音を出しているとき、僕が意識しているのは番号ではありません。

どんな音色でメロディーを支えるか
弦をどう触れば、柔らかい音や鋭い音が出せるか
一緒に演奏している人たちと、どう呼吸を合わせるか
こうした「生きている楽器としての姿」は、どうしても分類の数字だけでは伝えきれません。

だからこそ、検索の入口となる短い説明の中に、少しだけでも「今のツィンバロン」の様子が入っているといいな、と思うのです。

僕が理想とする「最初のひとこと」

もし、ツィンバロンを初めて知る方に向けて、僕が最初の一文を書くとしたら、こんな感じになります。

ツィンバロンは、ハンガリーを中心に発展した打弦楽器で、
コンサートや映画音楽、民俗音楽など、
さまざまな場面で活躍している楽器です。
そのあとで、歴史や構造、楽器の分類のお話をゆっくり足していく。
そうすると、「珍しい楽器」ではなく「今の音楽の中で生きている楽器」として、少しイメージしやすくなるのではないかと思っています。

いっしょにツィンバロンのイメージを広げていけたら…

インターネットの小さな文章が、楽器のイメージを大きく左右する時代です。
だからこそ、僕は演奏の現場から見えるツィンバロンの姿を、少しずつ言葉にして残していきたいと考えています。

ここに書いたのは、あくまで僕自身の経験から感じていることです。
ツィンバロンについて記事を書いてくださっている方々や、楽器を研究している方々への敬意は変わりません。

そのうえで、「こんな見え方もあるんだな」と、やさしく受け止めてもらえたらうれしいです。
これからも、音と文章の両方で、ツィンバロンの魅力をお伝えしていけたらと思います。

新しいタイプの軽量型ツィンバロン。煌びやかな音色。


2026年06月11日

松ヶ丘会館でのティータイムコンサート。繋がるご縁と、僕の原点。

今日の午前中は、雲ひとつない青空が広がる、初夏の眩しい一日となりました。

そんな心地よい陽気の中、松ヶ丘会館にて「ティータイムコンサート」を開催いたしました。おかげさまで会場は満席となり、お越しくださった皆様には心より感謝申し上げます。

今回のコンサートには、僕の叔母も足を運んでくれました。 終演後、周囲の方々から「やっぱり(雰囲気が)よく似ているね」と声をかけられ、少し照れくさくもありましたが、叔母の顔を見ていると「僕の原点はここにもあるんだな」と、改めて深く実感する瞬間でもありました。

1時間のソロコンサートを終えた後は、皆様とのティータイムの時間を設けさせていただきました。 松江ならではの、あの“おんぼらとした(落ち着いた・ゆったりとした)”温かい空気感に包まれる中、ツィンバロンという楽器のことや、ハンガリーでの留学生活についてなど、本当にたくさんのご質問をいただきました。その流れで、ありがたいことに急遽サイン会のようになる一幕もあり、とても充実したひとときとなりました。 皆様がこれほどまでに深い興味を持って耳を傾けてくださったことが何よりも嬉しく、一つひとつの質問にお答えしていく中で、僕のほうがたくさんの元気をいただいたように思います。

そして、最後にとても嬉しいお知らせをいただきました。 今日この場所に来てくださった皆様が、揃って11月3日のプラバホールでのコンサートにもお越しくださるというのです。 今日という日に繋がった大切なご縁が、また次の大きな舞台へと続いていく。 そして、そこでの再会を約束できること。それこそが、ツィンバロン・ディプロマーシュとして活動する僕にとって、一番の喜びであり、誇りでもあります。

活動20周年を迎えたこの6月、最高のスタートを切ることができました。 今日、松ヶ丘会館に足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。

11月3日、プラバホールのステージで、また皆様とお会いできることを心から楽しみにしています。

2026年06月11日
» 続きを読む