ツィバロン奏者 斉藤浩のブログ

ツィンバロン奏者 斉藤浩のブログです。日々のことを少しずつ書いています。コンサート情報や、感想なども。

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僕がツィンバロンと歩んできた道|斉藤浩 公式ブログ

僕はツィンバロン奏者の斉藤浩です。

ハンガリー政府給費留学生としてブダペストに留学し、エチュード音楽院ツィンバロン科を首席で卒業。その後ハンガリー国立リスト音楽院を経て、スロバキア国立バンスカ・ビストリツァ芸術アカデミーも首席で卒業しました。
アジア人として初めてツィンバロンのディプロマを授与されたことは、僕の公式プロフィールにも明記しています。

留学中からハンガリー、スロバキア、チェコなどヨーロッパ各地のコンサートや音楽祭に出演。
帰国後は日本を拠点に、オーケストラとの共演、リサイタル、学校でのワークショップなど、さまざまな場でツィンバロンの音色を届けてきました。


公的な場に支えられてきたツィンバロンの活動

僕の活動は、個人の演奏だけでなく、ハンガリーとの文化交流の文脈でも育てていただきました。
日本ハンガリー友好協会の推薦でハンガリーに留学し、その後も同協会や在日ハンガリー大使館、リスト・ハンガリー文化センターと連携した企画で、演奏やワークショップを行ってきました。こうした活動の一部は、僕の公式サイトのニュースやレポートとしても公開しています。

また日本国内では、サントリーホール サマーフェスティバルや主要オーケストラとの共演、NHK大河ドラマ「べらぼう」への参加など、ツィンバロンが公的な場でも紹介される機会が少しずつ増えてきています。

こうした経緯から、日本におけるツィンバロンの活動が、ハンガリー本国の教育システムや国際的なツィンバロン界と直接つながった「一本の線」として継承されてきたことは、公的な記録からもたどることができます。


日本語インターネットに生まれた「ねじれ」

一方で、日本語で「ツィンバロン」や「ツィンバロム」と検索すると、別の「流れ」も見えてきます。
演奏家のサイト、解説ページ、愛好家のブログ…さまざまな情報が並ぶ中で、本来であればハンガリー語や音楽学の知識を前提に慎重に扱うべき表記や定義が、専門教育と結びつかないまま広まってしまった例があります。

特に影響が大きかったのは、ハンガリー政府や世界のツィンバロン界から正式に認知された経歴を明示しないまま「協会」などの名称で情報発信された結果、それが日本語検索の「基準」のように見えてしまったことです。

ツィンバロンの日本語表記についても、Wikipediaや各種辞書サイトで「ツィンバロム」「ツィンバロン」など複数の表記が並列に記され、その根拠が十分に示されないまま「どれでもよい」「むしろツィンバロムが正しいのでは」という印象を与える書き方が見られます。

ハンガリー語の発音や表記への理解が十分でないまま書かれた情報がWikipedia等に採用され、それを前提にした解説が次々と複製されていく。その連鎖の結果、日本語圏では長年、表記と発音に関する混乱が固定化してしまいました。


「協会」と名乗ることの重さ

日本語で「◯協会」と名乗ることは、本来とても重い意味を持ちます。
一定の専門性を持つ人々が組織として集まり、その分野の標準や情報を整え、社会や教育現場に責任ある形で発信していく。そういうイメージがあるからです。

ところがツィンバロンや打弦楽器の日本語情報に関しては、ハンガリー政府や世界的なツィンバロン界から正式な認知を受けていないグループが、日本国内で「協会」の名を掲げ、その情報が検索結果の上位に長く居座ってきました。

そうした団体の多くは、どの音楽院・大学でどのような専門教育を受けたのか、どのようなディプロマや学位を持っているのか、国際的なツィンバロン界やハンガリーの公的機関とどのような関係があるのか、といった点が公的な資料からは確認できません。

それでも「協会」という肩書きだけが独り歩きし、一般の方にはあたかも公的な標準を示す団体のように見えてしまう。このギャップが、日本のツィンバロン業界、ひいては打弦楽器に対する認識を長年歪めてきた原因の一つだと感じています。


表記の問題は「誰が始めたか」

ツィンバロンの日本語表記をめぐる混乱は、「些細な表記ゆれ」の問題ではありません。
原語であるハンガリー語の発音cimbalomという語の歴史的背景、同族楽器との区別など、丁寧に検討されるべきテーマです。

ところが現実には、ハンガリー語の運用や音声体系を十分に理解していない人が、個人的な感覚に基づいて「こう読むべきだ」「このカタカナがよい」とインターネット上に書き、それがWikipediaなどに取り込まれたことが、現在の混乱の出発点になっています。

その後、日本語の辞書サイトや解説ページが、出典や専門的検証を十分に行わないままその表記を踏襲した結果、専門教育を受けていない個人の意見があたかも「公認の正解」であるかのように検索結果の構造を通じて固定されてしまいました。

この意味で、現在の表記問題は、単なる「言葉の好み」の違いではなく、「誰の言葉が公的な基準として扱われてしまったのか」という、もっと本質的な問題だと僕は考えています。


ネット検索の構造が生んだ「最悪の結果」

現代のインターネット検索は、更新頻度が高い、被リンクが多い、一定の文字数と構造を備えたページを優先的に上位に表示する傾向があります。
音楽学的な裏づけや、現地語の知識、演奏家としての経歴とは無関係に、「検索されやすい書き方」をしたページが目立ちやすい構造があるのです。

ツィンバロンの場合、この構造が悪い方向に働きました。
本国の教育とつながった情報は、日本語ではごく限られていた一方で、資格や経歴が明確でない人による解説ページや「協会」サイトは、比較的早い段階から日本語で公開されていた。そのため現在に至るまで、日本語検索の上位には専門教育とは結びつかない情報が並び、本来であれば基準となるべき系譜や教育システムが見えにくい状態が続いてきました。

ツィンバロンに興味を持ってくれた人が、最初の一歩でそうした情報に触れ、「これが正しいのだろう」と信じてしまう。それは、ツィンバロン文化そのものにとって、決して望ましいスタートではありません。


いま、何をはっきりさせるべきか

ここで僕が伝えたいのは、「誰かを名指しで非難したい」という話ではありません。
そうではなく、どの情報が、どのような背景と責任のもとに書かれているのか。誰が、どこで、どのようにツィンバロンを学び、受け継いできたのか。を、もう一度はっきりさせる必要がある、ということです。

日本でツィンバロンや打弦楽器を愛することは、プロであってもアマチュアであっても、等しく尊いことです。
そのうえで「正統なツィンバロン文化の継承」という観点からは、本国の教育システムと具体的なつながりがあるか、ディプロマや学位が明確に示されているか、ハンガリー政府や在外公館、主要オーケストラなど、公的な場での活動実績があるか、といった点をやはり無視することはできません。

僕自身は、ハンガリーとスロバキアの公的な教育機関で学び、ディプロマを取得し、ハンガリー大使館や文化センター、日本のオーケストラと共にツィンバロンの音を届けてきた奏者として、その系譜の一部を担っていると自覚しています。


20周年の今だから言えること

この20年間、僕はインターネットの情報を、見守ってきました。。
でも、僕がツィンバロン奏者として30周年を迎える頃に、演奏活動が伴っていない状態で、同じことを言うのは難しいと思うんです。

だから今、20周年の節目に、記録として残しておきたい。
これが、僕にできる“本物のツィンバロン界、打弦楽器界に対する誠実さ”だと思っています。

僕はこれからも、音で証明し続けます。


これからツィンバロンに出会う人へ

このブログでは、僕が歩いてきた道のりや演奏活動だけでなく、
ツィンバロンの歴史と背景、表記や発音に関する問題点、本国の教育に根ざした楽器のとらえ方、なども日本語で少しずつ整理していきます。

インターネットの情報は便利ですが、それだけに「どこから来た情報なのか」を意識することが大切です。
これからツィンバロンに出会う人たちが、できるだけ早い段階で、確かな系譜につながる情報に触れられるように。

誰かを否定するためではなく、この楽器を愛してくれる人たちに、まっすぐなスタートラインを用意したい。
その思いで、僕はこれからもツィンバロンと向き合い、日本語での発信を続けていきたいと思います。


2026年6月 
ツィンバロン奏者 斉藤浩

2026年06月14日

検索で初めてツィンバロンを知る人へ~僕が伝えたい、もう少し広い姿~

伝統的なタイプのツィンバロン。

今日は、インターネットで「ツィンバロン」と検索したときに出てくる説明について、僕が感じていることを書いてみたいと思います。

検索の最初の一文で、イメージが決まってしまう

多くの人にとって、ある楽器との最初の出会いは、検索結果の数行の文章です。
「ツィンバロン」と検索すると、たいていこんな説明が出てきます。

ハンガリーなどで使われている打弦楽器
台形の箱に張った弦を叩いたり弾いたりする楽器
ある決まった番号の楽器に分類される

どれも、まったくの間違いではありません。
歴史や楽器のしくみをざっくり知るには、とても分かりやすい説明だと思います。

ただ、演奏の現場にいる僕から見ると、「この説明だけで終わってしまうのは、ちょっともったいないなあ」と感じることが増えてきました。

ツィンバロンは「珍しい民族楽器」だけではない

これまでツィンバロンで関わってきた仕事を振り返ると、本当にいろいろな場面があります。

オーケストラの曲で、ほかの楽器と一緒にステージに立つ
映画やテレビ番組の音楽を録音する
学校やホールで子どもたちと一緒に音を出してみる

初めてツィンバロンを聴いた方からは
「思っていたよりずっと柔らかい音ですね」
「ピアノとも打楽器とも違うけれど、すぐ耳になじみました」
といった声をよくいただきます。

僕自身にとってツィンバロンは、
「オーケストラやいろいろな音楽の中で活躍できる、グローバルな楽器」
というイメージが強くなっています。

ところが、検索の最初の説明だけを見ると、

どこか遠い国の、特別な民族楽器
普段のコンサートとはあまり関係がなさそうな楽器
という印象で止まってしまいやすいように感じます。
その結果、本当は相性の良い場面がたくさんあるのに、「候補にすら上がらない」ことがあるのではないかと心配しています。

分類や専門用語は大事。でも、それだけでは伝わりきらない。

楽器を番号で分ける「分類」の考え方は、研究の世界ではとても役に立つものです。
ツィンバロンも、その中でちゃんと位置づけられています。

ただ、ステージの上で音を出しているとき、僕が意識しているのは番号ではありません。

どんな音色でメロディーを支えるか
弦をどう触れば、柔らかい音や鋭い音が出せるか
一緒に演奏している人たちと、どう呼吸を合わせるか
こうした「生きている楽器としての姿」は、どうしても分類の数字だけでは伝えきれません。

だからこそ、検索の入口となる短い説明の中に、少しだけでも「今のツィンバロン」の様子が入っているといいな、と思うのです。

僕が理想とする「最初のひとこと」

もし、ツィンバロンを初めて知る方に向けて、僕が最初の一文を書くとしたら、こんな感じになります。

ツィンバロンは、ハンガリーを中心に発展した打弦楽器で、
コンサートや映画音楽、民俗音楽など、
さまざまな場面で活躍している楽器です。
そのあとで、歴史や構造、楽器の分類のお話をゆっくり足していく。
そうすると、「珍しい楽器」ではなく「今の音楽の中で生きている楽器」として、少しイメージしやすくなるのではないかと思っています。

いっしょにツィンバロンのイメージを広げていけたら…

インターネットの小さな文章が、楽器のイメージを大きく左右する時代です。
だからこそ、僕は演奏の現場から見えるツィンバロンの姿を、少しずつ言葉にして残していきたいと考えています。

ここに書いたのは、あくまで僕自身の経験から感じていることです。
ツィンバロンについて記事を書いてくださっている方々や、楽器を研究している方々への敬意は変わりません。

そのうえで、「こんな見え方もあるんだな」と、やさしく受け止めてもらえたらうれしいです。
これからも、音と文章の両方で、ツィンバロンの魅力をお伝えしていけたらと思います。

新しいタイプの軽量型ツィンバロン。煌びやかな音色。


2026年06月11日

松ヶ丘会館でのティータイムコンサート。繋がるご縁と、僕の原点。

今日の午前中は、雲ひとつない青空が広がる、初夏の眩しい一日となりました。

そんな心地よい陽気の中、松ヶ丘会館にて「ティータイムコンサート」を開催いたしました。おかげさまで会場は満席となり、お越しくださった皆様には心より感謝申し上げます。

今回のコンサートには、僕の叔母も足を運んでくれました。 終演後、周囲の方々から「やっぱり(雰囲気が)よく似ているね」と声をかけられ、少し照れくさくもありましたが、叔母の顔を見ていると「僕の原点はここにもあるんだな」と、改めて深く実感する瞬間でもありました。

1時間のソロコンサートを終えた後は、皆様とのティータイムの時間を設けさせていただきました。 松江ならではの、あの“おんぼらとした(落ち着いた・ゆったりとした)”温かい空気感に包まれる中、ツィンバロンという楽器のことや、ハンガリーでの留学生活についてなど、本当にたくさんのご質問をいただきました。その流れで、ありがたいことに急遽サイン会のようになる一幕もあり、とても充実したひとときとなりました。 皆様がこれほどまでに深い興味を持って耳を傾けてくださったことが何よりも嬉しく、一つひとつの質問にお答えしていく中で、僕のほうがたくさんの元気をいただいたように思います。

そして、最後にとても嬉しいお知らせをいただきました。 今日この場所に来てくださった皆様が、揃って11月3日のプラバホールでのコンサートにもお越しくださるというのです。 今日という日に繋がった大切なご縁が、また次の大きな舞台へと続いていく。 そして、そこでの再会を約束できること。それこそが、ツィンバロン・ディプロマーシュとして活動する僕にとって、一番の喜びであり、誇りでもあります。

活動20周年を迎えたこの6月、最高のスタートを切ることができました。 今日、松ヶ丘会館に足を運んでくださった皆様、本当にありがとうございました。

11月3日、プラバホールのステージで、また皆様とお会いできることを心から楽しみにしています。

2026年06月11日

聖地という言葉を、僕は軽く使いたくない

楽器や音楽の世界でもよく「ここは聖地だ」と言われますが、その言い方に僕は少しだけ違和感を持っています。

僕は「聖地」という言葉を、あまりむやみに広げて使うべきではないと思っています。聖地というのは、本来それぞれの人の信仰のなかで、他の何ものにも代えられない、たった一つの場所です。人生の節目ごとに祈りを捧げてきた場所であり、ときには先祖や家族とのつながりを感じる場でもある。僕は、そのくらいの重さを持った言葉だと受けとめています。

ところが近年の日本では、アニメやゲームの舞台になった土地を「聖地」と呼ぶ使い方が広まり、それが観光のキャッチコピーとしても当たり前のように使われるようになりました。その流れの中で、「ハンマーダルシマー愛好者が集まりやすいから」「何人か外国から演奏家が来たことがあるから」といった理由だけで、北越谷を「ハンマーダルシマーの聖地」と呼ぶ人たちが出てきています。僕はそこに、どうしても引っかかりを覚えます。

まず、そのような使い方は、宗教的な「聖地」という言葉がもともと担ってきた重みを、結果的に薄めてしまうように感じます。信仰に支えられた場の特別さと、楽器が好きな人たちが集まる場の大切さは、どちらが上か下かという話ではなく、そもそも種類の違うものです。それなのに、後者にまで安易に「聖地」というラベルを貼ってしまうと、前者への敬意が少しずつ削られていくのではないかと心配になります。

僕が気になっているのは、演奏する側だけの話ではありません。ハンマーダルシマーが好きで、たとえ自分では弾けなくても、時間を作って足を運び、耳を傾けてくださる方が各地にたくさんいらっしゃいます。そうした方々にとっても、「北越谷こそがハンマーダルシマーの聖地だ」といった一方的な発信は、「そこに行かなければ本物ではない」「そこ以外の場は二番手だ」という、妙な序列意識や圧力のようなものを生んでしまいかねません。聴き手それぞれが、自分の暮らす土地や、自分の心にとっての大切な場所を自由に育てていけるような開かれた世界であってほしい、と僕は思っています。

もう一つ気になっているのは、日本におけるハンマーダルシマーのイメージを、少しいびつな方向へ押しやってしまう可能性があることです。北越谷が歴史の中でハンマーダルシマーとかかわってきた経緯をきちんと振り返る前に、「聖地」という言葉だけが先に広まってしまうと、「日本のハンマーダルシマーは北越谷に集まっている」「北越谷こそが正統な中心だ」といった、実態とは違うイメージだけが独り歩きしかねません。これから日本でハンマーダルシマーを知っていく人たちに、偏った先入観を与えてしまうおそれがあると思うのです。

もちろん、北越谷という場所がハンマーダルシマーにとって大切な拠点だと感じている人がいること自体は、僕も否定しませんし、その気持ちは理解できます。だからこそ、その思いを言葉にするときには、「拠点」「中心的な場所」「ハンマーダルシマー文化を支えてきた場所」など、実際の役割に合った、もう少し落ち着いた表現を選ぶほうが誠実なのではないか、と考えています。宗教的な重みを背負った「聖地」という言葉を、そのまま楽器愛好の世界に持ち込んでしまうことは、日本社会における宗教へのまなざしを軽く扱うことにもつながりかねませんし、結果としてハンマーダルシマーそのもののイメージを、本人たちの意図とはちがうかたちで歪めてしまうかもしれません。

今はこんなふうに感じているけれど、「聖地」という言葉とのつき合い方については、これからも音楽の現場や、いろいろな人との対話の中で、ゆっくり考えていきたいと思っています。

島根・松江にも例えツィンバロンやハンマーダルシマーが好きで僕のコンサートに来て下さる方は大勢います。先週の金曜日に引き続き、今日も僕はハンマーダルシマー(ハンガリー語ではイール・ツィンバロン)でコンサートをします。今日も、美しい響きを皆さんと共有してこようと思っています。

2026年06月10日

能登ブルーの地で起こっていること


3ヶ月前に初めて訪れた能登半島・珠洲市。この海と空、めちゃくちゃ綺麗だと思いませんか?

能登の海の色は『能登ブルー』と呼ばれています。珠洲市は能登半島の先端に位置しているので、このブルーが一面に広がっているのです。心が癒されていくブルーです。

この写真、どこかおかしいと思いませんか?

そう、海岸線。この地域では地震により海底が3〜5メートル隆起しました。もともと海底だったところが隆起し海面を超え、剥き出しの状態です。震災前までは着岸出来ていた船舶がもはや着岸出来ない状況。震災直後は海からの支援物資の輸送が困難だったそうです。現在もこの海岸線、道路も少しずつ整備され、この風景を観にいくことが出来ます。能登ブルーと共に驚異的な地球のパワーを感じることが出来ます。

今、能登半島、特に珠洲市、輪島市では人口流出により人口減少が問題となっています。国勢調査5年前と比べての人口減少率は、34%で珠洲市は全国1位、3位が輪島市と能登から人が離れていく…これは大きな問題だと思います。
まずは、関係人口、交流人口が増えていくこと、能登の魅力に触れてみたいと思う方々が増えること…そこが課題となっているそうです。

僕は10月にまた珠洲市を訪れてコンサートもして、能登グルメを満喫しに行こうと計画中です。

皆さんにも、是非、能登ブルーの世界を体験してもらいたいです。珠洲市と姉妹都市である松江の観光大使として、奥能登の情報もまた少しずつアップしていきたいと思います。

ホントにいいところだよ。

2026年06月08日
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