ツィバロン奏者 斉藤浩のブログ

ツィンバロン奏者 斉藤浩のブログです。日々のことを少しずつ書いています。コンサート情報や、感想なども。

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熊本地震で被災された皆さまへ ― 松江市から住宅支援のお知らせ

令和8年熊本地震により被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

突然の大きな揺れによって、それまで当たり前だった日常が一瞬にして変わってしまう。その不安やご苦労は、簡単な言葉で表せるものではないと思います。

そして今は、一年の中でも特に暑さの厳しい季節です。

 一日も早く片付けなければ。
 一日も早く家を直さなければ。
 一日も早く、元の生活に戻らなければ。

そう思われるお気持ちは、痛いほどよく分かります。

でも、どうか無理だけはなさらないでください。

復旧や復興には時間がかかります。そして、その長い道のりを歩いていくために何より大切なのは、まず命を守り、身体を休め、安心して眠れる場所を確保することだと僕は思っています。

松江市では、令和8年熊本地震によって被災され、住宅にお困りになっている方を対象に、市営住宅を無償で提供する支援が始まっています。

提供期間は原則1年間。

家賃・駐車場代・敷金・退去時の修繕費用は不要とのことです。 なお、電気・ガス・水道などの光熱水費と共益費については、入居される方の自己負担となります。

熊本から松江までは距離があります。 住み慣れた土地を離れることには、さまざまな迷いや不安もあると思います。それでも、猛暑の中で住まいのことで困っておられる方にとって、ひとまず安心して身体を休め、これからのことを考えるための選択肢の一つになればと思い、この情報をお伝えすることにしました。

また、この記事を読んでくださっている皆さんのご家族やご友人、お知り合いの中に、熊本地震で被災され、住まいに困っている方がいらっしゃいましたら、ぜひこの情報を伝えてあげてください。 必要としている方に、この支援の情報が届いてほしいと思います。

詳しい入居条件や申込方法などについては、 「松江市 熊本地震 市営住宅提供」 と検索して、松江市の公式情報をご確認ください。

お問い合わせは、松江市「住宅政策課」です。

復興を急ぐことも大切です。 でも、復興のために身体を壊してしまっては、その先の長い道のりを歩くことができません。 今はどうか、暑さの中で無理をせず、利用できる支援を利用してください。

遠く離れた松江からですが、被災された皆さまが一日も早く安心して眠れる日常を取り戻されることを、心から願っています。

松江観光大使 
斉藤浩

2026年08月07日

81年という歳月を迎えて思うこと

今日、広島に原子爆弾が投下されてから81年になります。

僕が初めて広島を訪れたのは、小学校6年生の修学旅行でした。

原爆資料館に入ってすぐ、被爆直後の様子を再現した蝋人形を目にした瞬間の衝撃は、今でも忘れることができません。子どもだった僕にはあまりにも強烈で、その光景は長い間、心に残り続けました。 怖かったです。

それ以来、僕は「核を持つ」ということについて、時々考えるようになりました。

原子力は、僕たちの暮らしを支えるエネルギーとして利用される一方で、使い方を誤れば、一瞬にして多くの命を奪う兵器にもなってしまいます。同じ「核」という技術でも、その使われ方によって結果はまったく違うものになります。 だからこそ、「核を持つことが軍事的な優位につながる」という考え方には、僕はどこか悲しさを感じます。

核兵器を一発開発し、製造するためには、莫大なお金と技術が必要です。その力や資金が、世界中の人たちが安心して暮らせる社会づくりや、医療、教育、防災、災害復興のために使われたら、どれほど多くの人が救われるだろうか…と思います。

そして、僕は「戦争」と「災害」は本質的に違うものだと感じています。

地震や豪雨、そして今年のような異常な猛暑など、自然災害は人間の力だけでは防ぐことができません。

先日の熊本の地震によって、現在も多くの人が不安な時間を過ごされたことと思います。

戦争は人間が始めるものです。

だからこそ、人間の知恵と対話によって避けられる可能性があるのではないでしょうか。

世界では今も争いが絶えません。それでも僕は、互いを傷つけ合うことではなく、支え合いながら共存共栄していく道を、世界中の人たちが真剣に考えていけたらと願っています。 そういう発信をすると反感を招くことも解っています。「お前の頭はお花畑なのか…」と。

それでも僕は思うんです。81年という歳月が流れた今だからこそ、平和について改めて考える一日であってほしいのです。

2026年08月06日

音楽の「系譜」が持つ、本当の意味

音楽の「系譜」が持つ、本当の意味 〜ハンガリー留学と24年を歩んだツィンバロンの記憶から〜

音楽の世界で「系譜」という言葉を耳にすると、「誰に師事したのか」「どこの音楽大学を卒業したのか」といった、いわゆる「経歴のリスト」を思い浮かべる方が多いかもしれません。

もちろん、それらも演奏家としての歩みを示す大切な事実です。しかし、僕が考える本当の意味での「系譜」は、もっと深く、もっと血の通った、温かいものです。

それは単に偉大な先生方の名前を履歴書に並べることではありません。一人の師匠から弟子へ、そしてまた次の世代へと途切れることなく受け継がれていく、音楽への思想、音色の紡ぎ方、身体の使い方、作品への深い向き合い方、さらには舞台の上に立つ一人の人間としての在り方までを含めた「生きた文化の流れ」そのものなのです。

楽譜には書かれていない「伝統のバトン」

例えば、日本の伝統芸能である歌舞伎や能、あるいは茶道や華道などでは、師弟関係や家元という仕組みが何百年もの間、非常に重んじられています。これは単に「偉い先生だから」という形式的な理由からではありません。先人たちが命を削りながら磨き上げてきた知恵や、言葉にできない美意識を、できるだけ純粋な形で次の世代へ手渡していくための極めて合理的な仕組みだからです。

この考え方は、西洋のクラシック音楽にも全く同じように息づいています。ピアノやヴァイオリン、あるいは指揮法を学ぶ人々が「自分は誰のもとで学び、その先生はさらに誰から学んだのか」という系譜を驚くほど大切にするのは、楽譜に書き残すことのできない本質的な要素が、そこに含まれているからです。

「この一音を、どのような響きで空間に放つべきか」
「音が消えたあとの沈黙を、どう表現するのか」
「お客様の前に立つとき、どのような心で舞台に上がるべきか」

こうした芸術の本質は、どれほど優れた教科書や本を読んでも学ぶことはできません。長い時間をかけ、師匠の背中を見つめ、ともに音を重ねていく日々の営みの中でしか、受け継がれないものなのです。


ハンガリーでの留学生活と、3人の師匠から授かったもの

僕が人生を捧げてきたツィンバロンの世界も、まさにこの系譜の連続でした。僕はブダペストで3人の偉大な師匠(サカーイ、セヴェレーニ、ヘレンチャール)から教えを受ける機会に恵まれました。

現地で学んだのは、決して打弦のスピードや難曲を弾きこなすための超絶技巧だけではありませんでした。

エルケル劇場の首席奏者でもあったヴィクトリア先生の計らいで、オペラの練習や本番をオーケストラピットのすぐ真横で見学させてもらった日々の緊張感。エアコンもないアパートの部屋で、扇風機を回し、たらいに張った冷たい水に足をドボンと浸しながら必死に譜面と格闘したブダペストの暑い夏。そうした留学生活のすべてを通して師匠たちから教わったのは、もっと精神的な根源にあるものでした。

それは、「一音に対する責任」「楽器への敬意」「聴衆への誠実さ」といった、目には見えないけれど何よりも重い伝統の重みでした。日々のレッスンを通じて、肌で学ばせていただいたのです。

「ステージには神様がいる」という教え

ツィンバロンの専門家になって20年以上が経ち、コンサートのたびに僕の心にはある確信があります。それは、「ステージには神様がいる」ということです。NHKホールのバックステージにも立派な神棚がありました。

神様はテクニックだけを見ているわけではありません。見られているのは、「どんな気持ちでその音を紡いでいるか」、そして「その奏者の足が、しっかりと地についた生き方をしているか」です。

評価という「花」に目を奪われるのではなく、それを地中深くで支えている「根っこ」を大切にしなければならない。舞台からは見えないその根っこの張り方こそが、音の響きとなって現れるのだと、僕は全ての師匠たちから教わりました。


24年の相棒とともに、今を紡ぎ、未来へつなぐ責任

僕には24年間ずっと一緒に歩んできた相棒(ツィンバロン)がいます。

この楽器とともに、ドイツ、スイス、チェコ、スロバキア、そして日本全国を旅してきました。近年のNHK交響楽団(N響)との共演、NHK大河ドラマの劇中音楽のレコーディングといった大きな舞台でも、いつもこの相棒が共に戦ってくれました。またその一方で、東日本大震災の被災地で仮設住宅を巡った日々や、今も継続して取り組んでいる能登半島地震の被災地支援コンサートなど、人々の哀しみに寄り添う現場でも、この相棒は何も言わずに僕のそばで音を重ね続けてくれています。

これらの経験を通じて、僕にとって「系譜」とは単なる経歴ではなく、師匠から受け継いだ音と精神を次世代へ伝える重い「責任」だと強く感じています。

先人たちが紡いできた長い歴史の最先端で、僕は師匠から授かった本物のツィンバロンの響きを大切に守り、未来へつないでいくつもりです。

2026年08月01日

父の命日に寄せて〜ブリキのマジンガーZと、ファンタグレープの記憶〜

明日、8月1日は父の命日です。父が旅立ってから、ちょうど3年になります。

最近、心身ともに少し体調を崩してしまい、明日の命日には仏壇のお水を替えて手を合わせることくらいしかできそうにありません。長男なのに情けないな……とベッドの中で落ち込んでいた時、引き出しの奥から一枚の古い写真が出てきました。色褪せていたその写真を、AIがきれいに蘇らせてくれました。

それは、僕が生まれて間もない頃、エンジ色のカーディガンを着た若い父の腕に、僕がすっぽりと抱かれている写真。父は小さな僕の口元へ食べ物を運んでくれています。

大人になってからの父との写真は1枚もありません。介護を巡る葛藤や、お互いの不器用さゆえに、相性が良くないと思い込んでいた時期もありました。でも、この写真と、記憶の底にある父との思い出が、僕の胸を温かく満たしてくれています。

僕の記憶の中にある、父との幸せな思い出が4つあります。

1つ目は、物心ついた頃に父が初めて買ってくれたおもちゃ。ゼンマイで動く、マジンガーZのブリキのおもちゃでした。僕は何度も何度もゼンマイを巻いて、夢中で遊んでいました。

2つ目は、小学生の頃。手先が器用だった父が、長い竹ひごと黄色い和紙を買ってきて、大きな凧を作ってくれたことです。その黄色い和紙に、父が黒のマジックで描いてくれた絵も、やっぱりマジンガーZでした。今思えば、父自身がマジンガーZのファンだったのかもしれません。父は風を読むことが得意で、その大きな凧を100メートル近く高くまであげたのが僕には衝撃的でした。

3つ目は、父が大好きだった夜釣り。50センチを超えるような大きな鯉やウナギを狙う父の横で、僕は魚が餌に食いつくまでの長い待ち時間が大嫌いでした。退屈してうろうろする僕に、父はいつも決まって「ファンタグレープ」を買ってくれました。なぜコーラやオレンジではなくグレープだったのかは今も謎ですが、僕はその甘い炭酸を飲みながら、静かな夜の川辺で父の趣味に付き合っていました。

そして4つ目は、大阪音楽大学の卒業論文を書いていた時のこと。僕作っていた膨大な研究資料を、父は何も言わずに、一生懸命にコピーして手伝ってくれました。その日の昼に、父が取ってくれた仕出し弁当。決して豪華な弁当ではなかったけれど、二人で並んで食べたあのお弁当の味は、今でも忘れられません。

父はいつも「音楽で自立しろ」と僕に厳しく言っていました。なかなか世の中に出ていけなかった僕は、両親にずっと心配をかけ続けてきたと思います。3年前に父が肺がんで旅立った時、僕はまだ、父が望むような姿を見せてあげることができませんでした。それがずっと、心残りでした。

けれど、父が旅立ったわずか4ヶ月後。僕に、NHK交響楽団(N響)との共演という夢のような機会が訪れました。そして、その後、大河ドラマ『べらぼう』のオープニングテーマや劇中音楽を担当させてもらうことになり、ツィンバロンの音色を全国に届ける大きな役目をいただきました。

生きているうちにこの姿を見せたかった。その思いで涙が出そうな時もあります。でも、この不思議なタイミングを想う時、僕は確信するのです。

「浩、お前はツィンバロンを人生の仕事にして、自立できたな。よく頑張った」

天国の父が、特等席で僕の音楽を聴きながら、今も背中を押してくれている。

お父さん、今年の命日は、立派な供養はできません。でも僕は、ハンガリーとスロバキアで受け継いだ本物のツィンバロンの伝統を、日本へつなぐために、人生を懸けて歩いています。

僕は、あなたの自慢の息子になれたでしょうか。

天国から、これからも僕が奏でるツィンバロンの音色を、どうか聴いていてください。

2026年07月31日

24年間、ずっと一緒に歩いてきた相棒

24年前の夏。
僕のツィンバロンが完成しました。

この楽器は、恩師ヘレンチャール・ヴィクトリア先生が使っているツィンバロンをもとに、改良を重ねて作られたプロトタイプです。

当時のブダペストでは、おそらく先生と僕だけがこのモデルを使っていました。 伝統的なツィンバロンより約30kg軽く、装飾も一切ありません。 見た目はとてもシンプルですが、その分、音には本当に惚れ込んでいます。今でも「この楽器に出会えてよかった」と思える、大切な存在です。

完成して間もない頃、このツィンバロンと一緒に、ブダの丘にあるマーチャーシュ教会で演奏させていただく機会がありました。 真

夏の暑い日だったことを、今でもよく覚えています。

教会の中へ入ると、美しいステンドグラスから差し込む光が床や壁をやさしく彩り、高い天井には豊かな残響が広がっていました。 まるで建物全体が楽器になったような空間。 その景色は24年経った今でも、心の中に鮮やかに残っています。

その時に演奏したのは、バッハの《シャコンヌ》。

今思えば、あの教会は残響が本当に豊かで、一生懸命(?)弾いていた細かな音も、全部きれいな和音になって響いていたかもしれません(笑)。

あれから24年。 このツィンバロンとともに、ハンガリーだけでなく、ドイツ、スイス、チェコ、スロバキア、そして日本各地へ、一緒に旅をしてきました。 大学での講義も、コンサートも、東日本大震災の被災地で仮設住宅を訪ねた日々も、たくさんのオーケストラとの共演も、すべてこの楽器と一緒です。 NHK交響楽団の公演も、大河ドラマ『べらぼう』のオープニングテーマの収録も、このツィンバロンが隣にいてくれました。

思い返してみると、僕の音楽人生の大切な時間には、いつもこの楽器があります。

楽器は言葉を話しません。

それでも、嬉しかった日も、悔しかった日も、何も言わずに僕のそばにいて、一緒に音を重ね続けてくれました。

24年間、本当にありがとう。

これからも、この大好きなツィンバロンと一緒に、誰かの心にそっと寄り添える音楽を届けていけたらと思っています。

2026年07月31日
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