ツィバロン奏者 斉藤浩のブログ

ツィンバロン奏者 斉藤浩のブログです。日々のことを少しずつ書いています。コンサート情報や、感想なども。

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聖地という言葉を、僕は軽く使いたくない

楽器や音楽の世界でもよく「ここは聖地だ」と言われますが、その言い方に僕は少しだけ違和感を持っています。

僕は「聖地」という言葉を、あまりむやみに広げて使うべきではないと思っています。聖地というのは、本来それぞれの人の信仰のなかで、他の何ものにも代えられない、たった一つの場所です。人生の節目ごとに祈りを捧げてきた場所であり、ときには先祖や家族とのつながりを感じる場でもある。僕は、そのくらいの重さを持った言葉だと受けとめています。

ところが近年の日本では、アニメやゲームの舞台になった土地を「聖地」と呼ぶ使い方が広まり、それが観光のキャッチコピーとしても当たり前のように使われるようになりました。その流れの中で、「ハンマーダルシマー愛好者が集まりやすいから」「何人か外国から演奏家が来たことがあるから」といった理由だけで、北越谷を「ハンマーダルシマーの聖地」と呼ぶ人たちが出てきています。僕はそこに、どうしても引っかかりを覚えます。

まず、そのような使い方は、宗教的な「聖地」という言葉がもともと担ってきた重みを、結果的に薄めてしまうように感じます。信仰に支えられた場の特別さと、楽器が好きな人たちが集まる場の大切さは、どちらが上か下かという話ではなく、そもそも種類の違うものです。それなのに、後者にまで安易に「聖地」というラベルを貼ってしまうと、前者への敬意が少しずつ削られていくのではないかと心配になります。

僕が気になっているのは、演奏する側だけの話ではありません。ハンマーダルシマーが好きで、たとえ自分では弾けなくても、時間を作って足を運び、耳を傾けてくださる方が各地にたくさんいらっしゃいます。そうした方々にとっても、「北越谷こそがハンマーダルシマーの聖地だ」といった一方的な発信は、「そこに行かなければ本物ではない」「そこ以外の場は二番手だ」という、妙な序列意識や圧力のようなものを生んでしまいかねません。聴き手それぞれが、自分の暮らす土地や、自分の心にとっての大切な場所を自由に育てていけるような開かれた世界であってほしい、と僕は思っています。

もう一つ気になっているのは、日本におけるハンマーダルシマーのイメージを、少しいびつな方向へ押しやってしまう可能性があることです。北越谷が歴史の中でハンマーダルシマーとかかわってきた経緯をきちんと振り返る前に、「聖地」という言葉だけが先に広まってしまうと、「日本のハンマーダルシマーは北越谷に集まっている」「北越谷こそが正統な中心だ」といった、実態とは違うイメージだけが独り歩きしかねません。これから日本でハンマーダルシマーを知っていく人たちに、偏った先入観を与えてしまうおそれがあると思うのです。

もちろん、北越谷という場所がハンマーダルシマーにとって大切な拠点だと感じている人がいること自体は、僕も否定しませんし、その気持ちは理解できます。だからこそ、その思いを言葉にするときには、「拠点」「中心的な場所」「ハンマーダルシマー文化を支えてきた場所」など、実際の役割に合った、もう少し落ち着いた表現を選ぶほうが誠実なのではないか、と考えています。宗教的な重みを背負った「聖地」という言葉を、そのまま楽器愛好の世界に持ち込んでしまうことは、日本社会における宗教へのまなざしを軽く扱うことにもつながりかねませんし、結果としてハンマーダルシマーそのもののイメージを、本人たちの意図とはちがうかたちで歪めてしまうかもしれません。

今はこんなふうに感じているけれど、「聖地」という言葉とのつき合い方については、これからも音楽の現場や、いろいろな人との対話の中で、ゆっくり考えていきたいと思っています。

島根・松江にも例えツィンバロンやハンマーダルシマーが好きで僕のコンサートに来て下さる方は大勢います。先週の金曜日に引き続き、今日も僕はハンマーダルシマー(ハンガリー語ではイール・ツィンバロン)でコンサートをします。今日も、美しい響きを皆さんと共有してこようと思っています。

2026年06月10日

能登ブルーの地で起こっていること


3ヶ月前に初めて訪れた能登半島・珠洲市。この海と空、めちゃくちゃ綺麗だと思いませんか?

能登の海の色は『能登ブルー』と呼ばれています。珠洲市は能登半島の先端に位置しているので、このブルーが一面に広がっているのです。心が癒されていくブルーです。

この写真、どこかおかしいと思いませんか?

そう、海岸線。この地域では地震により海底が3〜5メートル隆起しました。もともと海底だったところが隆起し海面を超え、剥き出しの状態です。震災前までは着岸出来ていた船舶がもはや着岸出来ない状況。震災直後は海からの支援物資の輸送が困難だったそうです。現在もこの海岸線、道路も少しずつ整備され、この風景を観にいくことが出来ます。能登ブルーと共に驚異的な地球のパワーを感じることが出来ます。

今、能登半島、特に珠洲市、輪島市では人口流出により人口減少が問題となっています。国勢調査5年前と比べての人口減少率は、34%で珠洲市は全国1位、3位が輪島市と能登から人が離れていく…これは大きな問題だと思います。
まずは、関係人口、交流人口が増えていくこと、能登の魅力に触れてみたいと思う方々が増えること…そこが課題となっているそうです。

僕は10月にまた珠洲市を訪れてコンサートもして、能登グルメを満喫しに行こうと計画中です。

皆さんにも、是非、能登ブルーの世界を体験してもらいたいです。珠洲市と姉妹都市である松江の観光大使として、奥能登の情報もまた少しずつアップしていきたいと思います。

ホントにいいところだよ。

2026年06月08日

「癒しの音色 ツィンバロン」松江市退職校長会でお話してきました

自分の目で見たこと、足で立った場所で感じたことだけを

今日は松江市退職校長会の皆さんの前で、「癒しの音色 ツィンバロン」というタイトルで講演と演奏をさせていただきました。

お話したのは、僕の子供の頃からの夢と現実…。

阪神淡路大震災で、ハンガリーへの留学が6年も遅れてしまったこと。
東日本大震災の直後から、8年間続けてきた三陸地方での復興支援のこと。
そして今、松江観光大使として責任を感じる、姉妹都市・珠洲市の今。

僕がお話できるのは、正直なところ
『自分の目で見たこと』『自分の足で立った場所で感じたこと』だけなんです。

テレビやネットの情報ではなく、現地で見た“本当に酷い状況”と、その中で出会った人たちの“本当に温かい心”。そして、今も残っている課題。
それを、言葉とツィンバロンの音で、少しでも届けられてたらと思っています。

講演をしている途中、涙を流して聴いてくださる方がいました。
その涙が、僕がツィンバロンと一緒に歩いてきた20年の答えだと、勝手ながら思っています。

復興支援について、否定的な言葉を投げかけてくる方もいます。
でも僕は、僕の音色を抱きしめてくれる方々と一緒に進んでいきたい。

復興のことは、遠くから語るより、まず現地に足を運んで、現実を見てほしい。
能登半島が、これから復興していく姿をワクワクしながら見守ってくれる人たちと、手を繋いでいきたいんです。

どれだけ役に立てるのか、正直まだわかりません。
でも、松江観光大使として、ツィンバロン奏者として、僕にできることをこれからも真っ直ぐ届けていきます。

今日、聴いてくださった校長会の皆さん、ありがとうございました。

2026年06月06日

20年目の“成人式”と、1枚の写真

ブダペストのコンサートホール。背景の壁に日本の日の丸とハンガリー国旗が並んで掲げられている。舞台中央で2台の明るい木製のツィンバロンVSIANSKYが左右に置かれ、若い斉藤浩さんと金髪の女性が譜面台を挟んでツィンバロンを演奏している。斉藤さんは青いシャツに黒いベスト、手にバチを持ち真剣な表情。右側の女性はヘレンチャール・ヴィクトーリア師匠で、眼鏡をかけ濃い緑の衣装を着て楽譜を見つめている。床は大理石調、木の梁が見える温かい空間。


昨日、相棒のツィンバロンの弦を優しく撫でた。
「いままで一緒にやってきてくれて、ありがとう」

その気持ちがあふれて、昔の写真を整理していたら、1枚の写真が出てきた。

20年前。ツィンバロンのディプロマを取得した直後のこと。
師匠ヘレンチャール・ヴィクトーリア(世界ツィンバロン協会会長)が、僕の“巣立ち”を後押ししてくれた。
ハンガリーとスロバキアの6都市でデュオコンサートを企画してくれたのだ。

この写真は、そのツアー最後の地ブダペストでの公演。
背後に並ぶ日の丸とハンガリー国旗。
僕の横で、ツィンバロンを弾く師匠の横顔。

その時の師匠の優しさは、今も僕の胸に残っている。
と同時に、「ツィンバロンの専門家として日本で活動していくんだ」
腹を括った瞬間でもあった。

あれから20年。

両眼の手術。東日本大震災。新型ウイルス。
「もう音楽を続けていけないかもしれない」
心が張り裂けそうになる夜もあった。

でも、乗り越えた先に、子供の頃からの夢が現実になった。
N響さんとの共演。大河の音楽に関わること。
まさに神様からのギフトのような出来事だった。

そして故郷・松江の観光大使に委嘱された。
生まれ故郷と、第二の故郷ハンガリーを、少しずつ繋げていける気がしている。
それが、僕の次の夢だ。

20年。日本では成人になる歳。
子供の頃に抱いた夢が、ここ数年で全部叶ってしまった。

ツィンバロン奏者になるまで、帰国してからも、
本当にたくさんの方々にお世話になり、支えられてきた。
今の斉藤浩があるのは、皆さんのおかげでしかない。

僕にできること。
それは、新たな夢を現実にしていくこと。
それが、恩返しになるような気がしている。

20年目の今日、相棒の弦に触れて誓う。
これからの音も、感謝の音にしていきたい。

2026年6月1日
ツィンバロン奏者 斉藤浩


2026年06月01日

初めて触れるツィンバロン ― 驚きと感動を分かち合う時間

ツィンバロンに、初めて触れる瞬間

ワークショップコンサートでは、ご希望の方に楽器へ直接触れていただく時間を大切にしています。

初めて目にする楽器。
初めて手にするバチ。
初めて自分の手で音を鳴らしてみる瞬間の感動。

人生で、そう何度も巡り合える体験ではないと思うからです。

僕自身も、若い頃ハンガリーのレストランで初めてツィンバロンを見て、触れさせていただいた時の驚きと感動を、今も鮮明に覚えています。
あの瞬間が、僕のツィンバロン人生の出発点でした。

これからも、ひとりでも多くの方にツィンバロンの音色と魅力に触れていただけるよう、ワークショップを続けてまいります。

参加者の中から「本格的に学んでみたい」と思っていただける方が現れてくださるなら、これに勝る喜びはありません。
日本でツィンバロン奏者の後進を育てたい。
それは、僕の小さな夢のひとつです。

先日のワークショップでは、ご年配の方からこんな言葉をいただきました。

「この歳になってこんな楽器は初めて見た。キレイな音がしますね。でも、触らせてもらったらいかに難しい楽器かよくわかりました」

その言葉が、なんか嬉しかったんです。
感動を共有できるって、素敵なことだなって思いました。

青いハンガリー刺繍のベストを着た奏者 斉藤浩が、参加者の手元にバチを添えてツィンバロンの弾き方を指導している。テーブルには麦わら帽子と衣装が並ぶ。
2026年05月31日
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