ツィンバロン奏者 斉藤浩のブログ

ツィンバロン奏者 斉藤浩のブログです。日々のことを少しずつ書いています。コンサート情報や、感想なども。

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災害が奪うのは、目に見えるものだけではない―阪神・淡路大震災を経験したツィンバロン奏者の記憶

令和8年熊本地震が発生してから、僕は世界各地で起きている災害のニュースに、これまで以上に目を向けるようになりました。

熊本では、今も活発な地震活動が続いています。そして熊本地震の後、8月10日には、南米コロンビアでもマグニチュード7.4の大きな地震が発生しました。

その少し前、6月24日には、隣国ベネズエラでマグニチュード7.2と7.5の地震が相次いで発生しています。

ベネズエラでは多くの建物が倒壊し、数千人もの命が失われたと伝えられています。住む場所を失った人も多く、電気や水道、通信、医療など、人々の生活を支えるものにも深刻な被害が出ています。

さらに中国をはじめ、世界各地で台風や豪雨、洪水による被害も続いています。道路が濁流にのみ込まれ、家や車が流され、多くの人々が避難を余儀なくされています。

それぞれの地震が直接つながっていると断定することはできません。また、地震と気候変動を同じ原因で説明することもできません。

それでも、世界のさまざまな場所から、地震、台風、豪雨、洪水の知らせが絶え間なく届いてくる現実に、僕は驚愕しています。

倒壊した建物や、濁流にのみ込まれる家の映像を見るたびに、僕は阪神・淡路大震災のことを思い出します。

僕自身、阪神・淡路大震災の被災者です。

あの震災では、家の中にあった多くのものが壊れました。テレビや家具も失いました。ツィンバロンとハンマーダルシマーは無事でしたが、それ以外のものはほぼ使い物にならなくなりました。

テレビや家具は、時間はかかっても、またお金をためて買い直すことができます。まったく同じものではなくても、生活の中に取り戻すことはできます。

でも、どれだけお金を出しても、二度と取り戻せないものがあります。

僕にとって、それは写真でした。

当時、僕は熱帯魚を飼っていました。
地震の激しい揺れによって水槽が倒れ、写真をしまっていた箱の上に落ちました。水槽の水で、箱の中の写真はすべてずぶぬれになりました。
震災の後、あまりのショックで片づけることが出来なかったので、後回しにしていた箱の中の何枚もの写真は重なったまま貼り付き、もう元に戻すことができなくなっていました。

僕は、仕方なく処分するしかありませんでした。

僕には大学生時代の写真が一枚もありません。

阪神・淡路大震災で亡くなった友人と一緒に写った写真も、失いました。

友人は震災で亡くなり、その友人と過ごした時間を写した写真まで、震災によって奪われました。

もう会うことのできない友人の姿を、手元に残された写真で確かめることさえできません。

写真は、ただの紙ではありません。

そこには、そのときの自分がいて、もう会うことのできない人がいて、二度と戻ることのない時間があります。

僕が若かった頃、どのような顔をしていたのか。誰と一緒に、どこで笑っていたのか。どんな時間を過ごしていたのか。

写真を見れば、忘れかけていた出来事や、そのときに交わした言葉まで思い出すことができたかもしれません。

しかし、その手がかりとなる写真が、僕には残されていません。

自分の人生の一部分を、突然切り取られてしまったような感覚です。

震災のときに見た衝撃的な光景や、感じた恐怖は、今でもトラウマのように記憶の中に残っています。

あの激しい揺れも、壊れた家の中も、震災直後の寒さや不安も、忘れることができません。

ところが、その一方で、震災より前の楽しかった思い出は、年月が過ぎるにつれて、少しずつ色あせていくように感じます。

忘れたいほど恐ろしい記憶は、今も鮮明に残っている。

それなのに、忘れたくない楽しい思い出のほうが、少しずつ遠ざかっていく。

僕にとって、それは今も続いている、震災による苦しみの一つです。

災害の被害は、亡くなった方や負傷した方の数、倒壊した建物の数、被害総額などによって伝えられます。

それらは、被害の大きさを知るために必要な数字です。

しかし、その数字だけでは決して表すことのできない喪失があります。

一軒の家が失われたということは、その中にあった家族の写真、手紙、子どもの頃の記録、亡くなった人の面影まで、失われたかもしれないということです。

そこには、その人が生きてきた時間があります。

世界各地の地震や洪水の映像を見るとき、僕は画面に映る一軒一軒の家にも、それぞれの人生と記憶があったのだと思います。

災害は、建物や家具など、目に見えるものだけを奪うのではありません。

その人の過去、かけがえのない人との記憶、そして自分が生きてきた証しまで、一瞬にして奪ってしまうことがあります。

街の建物が新しくなり、道路や鉄道が復旧しても、被災した人の中で、震災が終わるとは限りません。

僕が失った写真は、もう戻ってきません。

阪神・淡路大震災で亡くなった友人との写真も、二度と見ることはできません。

震災から三十年以上が過ぎても、その事実は今も僕の中に残っています。

熊本、ベネズエラ、コロンビアをはじめ、世界各地で地震や台風、豪雨、洪水によって被災された方々も、外からは見えない、それぞれの喪失を抱えているのだと思います。

災害のニュースに接するとき、僕たちは被害を数字だけで見てはいけない。

その数字の一つひとつに、かけがえのない人の命と人生があることを、忘れてはいけないと思います。

世界各地の災害で亡くなられた方々に、心より哀悼の意を表します。そして、被災されたすべての方々に、心よりお見舞い申し上げます。

僕は阪神・淡路大震災で失った写真と、今も消えることのない記憶を抱えながら、災害が人の人生から何を奪うのかを、これからも伝えていきたいと思います。

2026年08月13日

ツィンバロンで旅する中近東―『CARAVAN』

今回ご紹介する動画は、僕が以前制作した『CARAVAN』というPVです。

この曲はもともと、コマーシャルで使用するBGMとしてご依頼をいただき、作曲したものでした。タイトルのとおり、広い砂漠を進んでいく隊商(キャラバン)の姿を思い浮かべながら聴いていただけたらと思います。


ツィンバロンというと、ハンガリーの民族音楽を演奏する楽器という印象を持っている方も多いかもしれません。しかし実際には、ハンガリー音楽だけでなく、さまざまな国や地域の音楽に不思議なほどよく馴染む楽器です。

ツィンバロンは、その祖先をたどると中近東の打弦楽器につながるともいわれています。そのため、この楽器を使って中近東を思わせる音楽を作ることもできます。ただし、音程が固定されたツィンバロンでは、中東の伝統音楽で使われるような繊細な微分音まで表現することは難しく、そこは少し残念に感じたところでもありました。

僕は大学生の頃、イランの打弦楽器「サントゥール」を学んでいました。そこで身につけた旋律の動きや装飾の感覚を思い出しながら、この曲でも中近東風の旋律を自分なりに模して演奏しています。

ハンガリーで学んだ伝統的なツィンバロンの使い方とは、かなり異なる演奏です。でも、ツィンバロンではこういう音楽もできるんです。

NHK大河ドラマ『べらぼう』の作曲家、ジョン・グラムさんが僕に伝えてくださったように、僕も「ツィンバロンはグローバルな楽器」だと感じています。国や文化の境界を越えて、聴く人の想像をさまざまな場所へ運んでくれる―それも、この楽器の大きな魅力のひとつです。

『CARAVAN』を聴きながら、ツィンバロンの音色と一緒に、少しだけ遠い異国を旅するような気分を楽しんでいただけたら嬉しいです。 この曲は、僕のアルバム『Life』にも収録されています。

ぜひ、映像とともにお楽しみください。

2026年08月12日

信じられない「ドナウ川の渇水」―僕が見た「濁流で狂暴なドナウ」

今、ハンガリーを流れるドナウ川が、記録的な渇水状態になっているというニュースを目にしました。 正直に言って、僕にはすぐには信じられませんでした。

僕はハンガリー留学中の2002年から2006年まで、ブダペストで暮らしていました。 僕にとってドナウ川は、観光写真やヨハン・シュトラウスのワルツで知られる「美しき青きドナウ」だけではありません。 僕は、「濁流で狂暴なドナウ」も実際に見た経験者だからです。

留学中、ブダペストでは二度、大きな洪水がありました。 一度目は2002年8月。 ブダペストでは8月18日に水位が848cmに達しました。ドナウ川流域に降り続いた大量の雨によって起きた大洪水でした。 そして二度目は2006年4月。 この時にはさらに水位が上がり、4月4日に860cmを記録。2002年の記録を上回る、当時としては観測史上最高の「結氷を伴わない洪水」となりました。

僕は、その時のドナウ川を今でもはっきり覚えています。

くさり橋の上から川を見ると、いつものドナウとはまるで別の川でした。 大量の濁った水が、ものすごい勢いで流れていました。 上流からは、倒れた大きな木まで流れてきました。 木だけではありません。 いろいろな物が濁流の中を流されていく。

橋の上から見ていても、正直、怖かった。 普段はゆったりと流れているように見えるドナウ川が、自然の力をむき出しにして、轟々と流れていくのです。

洪水の影響で地下交通にも大きな影響が出ました。 ブダペストでは地下鉄やHÉVなど、地下を走る交通機関があります。僕自身も普段使っていた地下交通が使えない場面があり、とても困ったことを覚えています。

そして、水が引いた後も大変でした。 ドナウ川がいつもの水位に戻っていくと、両岸には上流から運ばれてきた木や、さまざまながれきが大量に残されていました。

だから僕の中には、 「ドナウ川は水が多すぎて怖い川になることがある」という強烈な記憶があります。

その僕が今、 「ドナウ川が渇水している」というニュースを見ているのです。

2026年7月末、ブダペストではドナウ川の水位が23cmまで低下し、2018年に記録されたそれまでの最低水位33cmを下回ったそうです。 もちろん、この「23cm」という数字は川全体の深さが23cmという意味ではなく、水位観測所の基準面から測った数字です。 それでも、記録的な低水位であることに変わりはありません。

長期間の少雨と猛暑によってドナウ川流域の水量そのものが極端に減少し、ハンガリーの水利当局も、現在の自然流量がこれまで観測された値を下回るほど異常に少なくなっているとのことです。

僕が洪水を経験した2002年の848cm。 そして2006年の860cm。 あの濁流を自分の目で見た人間としては、現在のドナウ川の姿を簡単には想像することができません。

さらに、信じられないニュースがあります。

水位が下がったドナウ川から、80年以上前の第二次世界大戦の痕跡が再び姿を現しているというのです。

セルビアとルーマニアの国境に近いプラホヴォ付近では、1944年にドイツ軍が撤退する際に自ら沈めた軍用艦艇が、低水位によって次々と姿を現しています。 当時、ソ連軍の進撃を妨げるため、最大200隻ほどのドイツ軍艦艇がこの付近で沈められたとされています。 中には今なお武器や爆発物を積んでいる可能性のある船もあるのだとか。

ハンガリーでも、低水位になったドナウ川から第二次世界大戦当時のドイツ軍に関係する遺物などが見つかったそうです。

80年以上、ドナウ川の水の下に眠っていた戦争の痕跡が、2026年の異常な渇水によって再び人間の前に現れている。 そんなことが本当に起きています。

歴史というものは、過去になったからといって消えてしまうわけではない。 川底の下にも、地面の下にも、人々の記憶の中にも残っているのだと思います。

僕がブダペストに暮らしていた頃、目の前にあったドナウ川は、時には恐ろしいほど大量の水を運んでいました。 「美しき青きドナウ」と呼ばれる川が、茶色い濁流となり、倒れた巨木を運びながら流れていく。 僕はその姿を知っています。

それだけに、今度はその同じドナウ川が水を失い、川底をさらけ出しているという現実に、言葉を失います。

ハンガリーにも、これほど大きな異常気象の影響が及んでいる。 かつて暮らした国だけに、遠い外国のニュースとして見ることができません。

洪水であれ、渇水であれ、人間は自然の力を完全に支配することなどできない。

2002年と2006年に僕が見た「濁流で狂暴なドナウ」。 そして2026年、川底に眠っていた80年以上前の戦争の痕跡まで見せ始めた「渇水のドナウ」。

同じ川が、わずか20数年の間にこれほど両極端な姿を人間に見せていることに、僕は大きな驚きと、言葉にできない不安を感じています。

僕の記憶の中にあるドナウ川は、今もブダペストの街の真ん中を、たっぷりと水をたたえて流れています。 だからこそ今のニュースを見ながら、僕は何度も思います。

あのドナウ川が、本当にこんなことになっているのか…。

2026年08月11日

「Hiroshi」と「Hiroshima」―名前の響きがもたらした差別の記憶

今日は8月9日。長崎に原子爆弾が投下された日です。

この日に、僕が留学していた頃に経験したことを、一人の日本人として書いておきたいと思います。 これは、とてもセンシティブな話です。

誰かの国や民族を批判したいわけではありません。

僕がハンガリーとスロバキアで過ごした約5年間には、たくさんの素晴らしい出会いがあり、多くの人に助けてもらいました。 そのことを最初に書いたうえで、それでも実際に僕が経験したこととして、残しておきたいと思います。

僕の名前は「Hiroshi(ヒロシ)」です。 留学した当初、この名前を名乗ることで、思いもしなかった経験をすることがありました。

「Hiroshi」と「Hiroshima」。 外国語として聞いたとき、その響きが似ているからなのでしょう。 僕が名前を告げると、 「Hiroshima、Hiroshima……ああ、違った。君はHiroshiだったね」 と笑われる。 ひどいときには、大勢の人がいる前で、 「Hiroshima! Bomb!」 と声を上げられ、からかわれることもありました。

原爆という、人間が決して軽い冗談にしてはいけない出来事と、僕自身の名前を結びつけられたのです。 そして時には、まるで僕自身が「放射能」と結びついた存在であるかのような言葉や態度を向けられることさえありました。

僕は、そのたびにどう反応すればいいのか分かりませんでした。

怒ればいいのか。 抗議すればいいのか。 その場を笑ってやり過ごせばいいのか。 でも、笑えるはずがありません。 僕は「ヒロシ」という自分の名前を名乗っただけなのです。

名前は、自分が生まれたときに与えられた大切なものです。 それを名乗ることそのものが怖くなる。

そんな経験は、それを実際に味わった人でなければ、なかなか想像できないかもしれません。

留学生活の中で僕が辛かったのは、「広島について触れられること」ではありませんでした。 広島や長崎について日本人として語ることを、僕は避けたいと思ったことはありません。 そうではなく、原爆という歴史的な悲劇が、僕の名前をからかったり、人を傷つけたりするための「冗談」として使われることが辛かったのです。

そんな中で、今でも忘れられない人たちがいます。 僕が所属していたELTEバルトーク混声合唱団の仲間たちです。

合唱団では、みんな僕のことを「Hiroshi」ではなく、 「Hiro(ヒロ)」 と呼んでくれていました。 「ヒロ!」 「ヒロ!」 いつもそう呼ばれていました。

当時の僕には、それがどれほどありがたかったことか。 彼らがどこまで僕の気持ちを理解してくれていたのか、すべてを言葉で確認したわけではありません。 でも僕には、「この場所では安心していていいんだ」と感じられました。

人を傷つけるのも言葉なら、人を守るのもまた言葉なのだと思います。 ほんの少し呼び方を変える。 たったそれだけのことが、一人の人間にとって大きな救いになることがあります。

留学生活が長くなり、僕という人間を周囲の人たちが知ってくれるようになるにつれて、名前をからかわれることも、やがてほとんどなくなっていきました。 それでも、あの頃の記憶は消えません。

8月になると、僕は毎年いろいろなことを考えます。 広島。 長崎。 そして、戦争によって命を奪われた、世界中の多くの人たちのこと。 原爆によって亡くなられた方々、今もその影響に苦しむ方々のことを思えば、「Hiroshima」や「Nagasaki」という言葉を、人を笑ったり傷つけたりするための材料にしていいはずがありません。

そして同時に、僕たちは歴史を「誰かを憎むため」に記憶するのではなく、同じことを二度と繰り返さないために記憶し続けなければならないのだと思います。

戦後の日本は、平和を大切にすることを社会の大きな柱として歩んできました。 僕は、その国に生きている一人として、「戦争をしない」という願いをこれからも大切にしたい。

今日、8月9日。 長崎に原子爆弾が投下されてから81年。

亡くなられたすべての方々に、心から祈りを捧げます。

そして、国籍や民族や名前の違いによって、人が傷つけられることのない世界であってほしい。

「Hiroshi」という自分の名前を、僕は今、大切にしています。 あの頃、僕を「Hiro」と呼んでくれた仲間たちの優しさとともに。

2026年08月09日

熊本地震で被災された皆さまへ ― 松江市から住宅支援のお知らせ

令和8年熊本地震により被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

突然の大きな揺れによって、それまで当たり前だった日常が一瞬にして変わってしまう。その不安やご苦労は、簡単な言葉で表せるものではないと思います。

そして今は、一年の中でも特に暑さの厳しい季節です。

 一日も早く片付けなければ。
 一日も早く家を直さなければ。
 一日も早く、元の生活に戻らなければ。

そう思われるお気持ちは、痛いほどよく分かります。

でも、どうか無理だけはなさらないでください。

復旧や復興には時間がかかります。そして、その長い道のりを歩いていくために何より大切なのは、まず命を守り、身体を休め、安心して眠れる場所を確保することだと僕は思っています。

松江市では、令和8年熊本地震によって被災され、住宅にお困りになっている方を対象に、市営住宅を無償で提供する支援が始まっています。

提供期間は原則1年間。

家賃・駐車場代・敷金・退去時の修繕費用は不要とのことです。 なお、電気・ガス・水道などの光熱水費と共益費については、入居される方の自己負担となります。

熊本から松江までは距離があります。 住み慣れた土地を離れることには、さまざまな迷いや不安もあると思います。それでも、猛暑の中で住まいのことで困っておられる方にとって、ひとまず安心して身体を休め、これからのことを考えるための選択肢の一つになればと思い、この情報をお伝えすることにしました。

また、この記事を読んでくださっている皆さんのご家族やご友人、お知り合いの中に、熊本地震で被災され、住まいに困っている方がいらっしゃいましたら、ぜひこの情報を伝えてあげてください。 必要としている方に、この支援の情報が届いてほしいと思います。

詳しい入居条件や申込方法などについては、 「松江市 熊本地震 市営住宅提供」 と検索して、松江市の公式情報をご確認ください。

お問い合わせは、松江市「住宅政策課」です。

復興を急ぐことも大切です。 でも、復興のために身体を壊してしまっては、その先の長い道のりを歩くことができません。 今はどうか、暑さの中で無理をせず、利用できる支援を利用してください。

遠く離れた松江からですが、被災された皆さまが一日も早く安心して眠れる日常を取り戻されることを、心から願っています。

松江観光大使 
斉藤浩

2026年08月07日
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