「聖地」という囲い込みがもたらす排他性と、愛好家への心理的圧力について
日本全国でハンマーダルシマーやツィンバロンといった打弦楽器を志す方が増えている中、非常に懸念すべき動向があります。SNS等において、特定の店舗やコミュニティをあたかも「聖地」であるかのように呼び、そこがジャンルの中心であるかのように演出する発信…これはどうかと思います。
こうした現実を捻じ曲げるような過度な神格化や権威付けは、これから楽器を始めようとする方や、遠方で一人で練習に励む熱心な愛好家たちに対して、深刻な心理的圧迫と弊害をもたらしていると感じます。
1. 全国各地の愛好家に与える「孤立への不安」
特定の場所が「聖地」として祭り上げられると、そこから地理的に遠い場所にいる愛好家や、そのコミュニティに属していない人々は、「あの場所に行かなければ、この楽器の仲間として認めてもらえないのではないか」という強い不安や焦りを抱くようになるでしょう。
音楽や楽器は、日本中のどこに住んでいようとも、個人の自由なスタンスで等しく愛され、育まれるべきものです。内輪の盛り上がりを「聖地」という特権的な言葉で表現することは、結果として「そこに関われない人々」を不当に排除し、心理的な壁を作る結果を招くことになるのではないでしょうか?
2. 本物の「聖地」とは、個人の商業空間ではない
歴史的に見れば、ツィンバロンやハンマーダルシマーといった打弦楽器の本当の「聖地(源流)」は、何百年もの伝統が息づくヨーロッパの本場であり、そこにある正統な音楽教育機関や歴史そのものです。
日本国内の一部の私的なカフェや商業的なスペース、あるいは明確な師弟の系譜を持たない趣味レベルの集まりを、あたかも「公式な聖地」であるかのように錯覚させる結果として、国際的な文化への敬意を欠く形になってしまうのではないかと危惧しています。
『聖地』という言葉を、宗教とは無関係な趣味の集まりに安易に使うことには、個人的に強い違和感があります。僕には、イスラム圏やユダヤ教のバックグラウンドを持つ大切なツィンバロン奏者の同僚たちがいます。彼らにとっての「聖地」とは、歴史的にも現在進行形でも、文字通り命と信仰に関わる最も神聖で重い場所です。彼らがその言葉に込める命の重みを間近で感じてきたからこそ、国内の一部の私的なスペースをあたかも「公式な聖地」であるかのように呼ぶ軽さに、僕は国際的な文化への敬意という観点から、どうしても危機感を抱かざるを得ないのです。
打弦楽器の世界では、特定の店や地域を『中心地』や『拠点』と呼ぶことはあっても、『聖地』などという宗教的な重さを持つ言葉で呼ぶ必要はないのではないかと考えています。
3. 文化を衰退させる「囲い込み」への抗議
特定の場所に行かなければ正統な仲間に入れないかのような錯覚を生む環境は、文化の「囲い込み」であり、健全な普及を著しく邪魔するものです。「十分な実績や検証を経ていない発信」が、身内のアマチュアを巻き込んで狭い権威の城を築く現状は、本物の芸術文化を守る立場から断固として看過できません。
打弦楽器を愛するすべての人々が、架空の権威や特定の場所に縛られることなく、自由でフラットな環境の中で音楽に向き合えること。それこそが、未来の演奏家や愛好家たちを迷わせないための正しい道です。私たちは、一部の身内受けの言葉に惑わされることなく、何が本物の歴史であり、何が開かれた文化であるかを見極める必要があります。打弦楽器は次々と進化しています。それにともなって演奏法も多様化しています。奏者がトレモロを使おうがジャズを弾こうが、それはその奏者自身が責任をもって取り組むことであり、第三者が口をはさむことではないと思います。こうした発想が結果的に可能性を狭めてしまう場面もあると感じています。
僕はツィンバロンのディプロマ奏者として、この20年間、日本における文化の受容のあり方をずっと見つめてきました。だからこそ、こうした言葉の軽視や安易な囲い込みに対して、専門家としての責任を持って明確に「否」を唱え続けます。安易な「聖地」という囲い込みをやめ、本物の歴史に敬意を払うこと。それこそが、これからの日本の打弦楽器界が、国際社会に恥じない本当の「開かれた文化」へと成熟していくための、避けては通れない第一歩だと思っています。